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インドネシア通信 『タラカン暴動』…の巻き

 

今回出張中に悲しい出来事が起こりました。

なんと小職の心の故郷であるあの静かなタラカン島で暴動が起こったのです。

最近はどこでもNHKの海外放送を流しておりますのでついついインドネシアの放送を

見過ごしておりました。

インドネシアの友人から聞いてビックリ、インドネシアのTVや新聞を見るとタラカンが

出ておりました。

 

最初は取るに足らない小さな『いざこざ』…だったそうです。

9月26日、セレベス島から移り住んでいるブギス族の与太者5人が夜中の23:30ごろ

酒に酔って騒いでいたそうです。

そこを通りかかった(タバコを買いに出た?)タラカン土着のティドゥン族の若者が彼等に

からまれ殴られ病院送りとなったそうです。

この若者の親父がティドゥン族の仲間6人を引き連れて仕返しに行ったところ与太者達は

酔った勢いで親父とその友人2人の合計3人を殴り殺してしまったようです。

27日朝親父達の無残な死体が発見されたことで暴動に火が付いたそうです。

 

28日、噂を聞いた多くのティドゥン族の男たちがブギス族の若者を探し出して2人を

刺し殺したそうです。

対抗上ブギス族も仲間を集めティドゥン族に挑み掛かりタラカン全市を舞台とする

暴動に発展したようです。

土着のダヤック・ティドゥン族と外来のブギス族との間の部族間対立に火が点いて

しまったのです。

この暴動を避けて3万人を超えるブギス族の人々がタラカン市街から非難したそうです。

脳裏には西カリで猛威を振るったダヤック族のマドラ族に対する首狩の惨状がよぎった

事でしょう。

 

 

マレーシアのサバ・サラワク州からインドネシアのカリマンタン州にかけて多くの土着民族

が住んでおります。

ダヤック族の多くは山間部や川の流域に住み、ティドゥン族は主に海辺に住んでいる

寡黙な民族です。

ボルネオ島は元々ティドゥン族やダヤック族の土地なのです。

彼等の赤ちゃんはお尻に蒙古斑のような青い色が出ます。

刺青を入れる習慣や夜這いの風習までもあります。

特に女性は色が白く、まるで日本人のようです。

昔々カリマンタン開発のために山に入った多くの日本人がダヤック族の若い娘に惚れました。

小職が惚れて『なおみ』と呼んでいた娘も本名『NOMI』というダヤック族でした。

今でもカリマンタンの山奥へ入ってゆくとハッとする様な美人に出会うことがあります。

(夜這いで手をつけてもいいのですが、孕ませて逃げると首を刈られます。)

 

 

ブギス族はカリマンタン島の隣に位置するヒトデのような形をしたセレベス島の民です。

色が浅黒く精悍で剽悍で喧嘩っ早い男たちです。

元々は船を操って広い海を行き来していた海洋民族です。

肉体労働に慣れており、カリマンタンでの港湾動労者やステベ、の森林伐採労働に従事

してくれた民族です。(彼等を抜きにして原木伐採の仕事は語れません。)

 

小職は1979年から1985年までタラカン島対岸のマングローブ林(ジョンコンやペルプック)

の伐採を彼等と組んで行っておりました。

ブギス族の男達を100人単位でセレベス島から連れて来て伐採キャンプへ入ってもらって

おりました。

湿地帯の伐採現場…蚊の飛び回る水上ジャングルに小屋掛けして何ヶ月も一人蚊帳を

吊って暮らし、原木を載せた木馬を人力で引き出すという過酷な仕事をしてくれた男達。

そのお陰で当時小職が所属していた天龍木材は湿地帯材輸入で大いに儲けたものです。

小職は彼等に米、コーヒー、タバコ、塩魚、を供給して伐採現場を維持し、出てきた丸太を

検品して買い取る仕事をしておりました。 

キャンプ入りしても一晩で逃げ出す情けないマネージャーでした。

情けない親分を支えて検品や船積みを行ってくれていたのが逞しいティドゥン族の男達でした。

 

ブギス族の男達はタバコとコーヒーを切らさなければ何ヶ月もキャンプに居続けます。

一度試しに土着のダヤック族を入れてみたのですが、マラリアに罹ったの何のと言ってみな

逃げ出してしまいました。

土着のダヤックが逃げ出すような過酷な場所で耐えて重労働に従事していたのです。

 

 

小職にとって最も慣れ親しんだ二つの民族(友人)が心の故郷であるタラカンで対立して

しまったのです。

 

1997年に西カリマンタン、サンピット一帯で土着のダヤック族と移民してきたマドラ族との

対立抗争が勃発しました。

スハルト政権時代は人口の多いジャワ島から人の少ない外島(カリマンタン島、スマトラ島、

セレベス島)への国内移民政策を勧めておりました。

東ジャワより西カリマンタンへ入植して来たマドラ族の若者がダヤック族の娘に暴行したことを

きっかけに土地を奪われたと恨んでいるダヤック族の怒りが爆発し暴動に発展したのです。

ダヤック族は首狩の風習がありますので、マドラ族の首を切り落としそれを蹴ったり竹に刺して

道端に並べて晒したりといった凄惨な写真がインターネットで出回りました。

幼い女の子の首なし死体に衝撃を受けたものです。

 

まさかタラカンが同じ状況に陥らないか…

 

まさか、まさか、この暴動が反華人暴動に発展しないか…

 

タラカンに住んでいる元部下からの携帯メールをモニターし続けました。

 

29日になって

・ユドヨノ大統領が『サンピットの二の舞をしないように』、と両部族に冷静を呼びかけました。

・東カリマンタン州知事が仲裁に乗り出し両部族を分けました。

・国軍や警察も投入されました。

その結果、仲裁者の前で両部族の長が手締めのサインをして落ち着きを取り戻した、

との報道が流れ出しました。これで一安心です。

 

30年間小職が捜し求めていた『タラカン』の語源が偶然この事件報道で判りました。

ティドゥン語のTarak(会う)とNgakan(MAKAN・食べる)を組み合わせたものだそうです。

漁師達が休息に立ち寄って一緒に食事をする場所、それが『TARAKAN』なのです。

その地で起こった恨みの対立はTARAKANの語源を裏切る寂しい行為です。

人間は常に恨む対象を持たねば生きてゆけないものなのでしょうか…

山の民と海の民…、

日本の海彦・山彦の話のように喧嘩をしても最後は仲良くなれないものでしょうか…

 

最近日本から来られた友人と、『インドネシアも暴動が起こらなくなって平和になったものだ』、

と話をしていた矢先の出来事でした。

 

スハルトさんもとんだ騒動の種を植え付けてくれたものです。

この種が時限爆弾となってカリマンタンのあちこちで爆破しないように祈るばかりです。

インドネシアはイスラムのテロだけでなくこのような民族対立の爆弾も抱えた多民族で

多島な国家なのです。

 

日本に生まれてよかったですね…。