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【インドネシア通信 ::::: イスラム正月 】


      
2004/11/14  スマトラ島 ジャンビ市にて
                         
神谷  典明

 やっと一ヶ月に及ぶ断食行(プアサ)の終わりを告げるコーランがホテルの窓越しに聞こえます。
一番暑い昼間の時間を一滴の水も飲まず食事も摂らず、然るに生活だけは日常通りに過ごす修行。
 タクシーの運転手は運転席の横にペットボトルを置いて粘つく口を押さえながら気もそぞろに夕べのお祈りを待つ…
 工場の従業員は昼食時間が来ると何も置かれていないテーブルを前にボーと食堂の椅子に座っている…
 こんな光景を日常的に目にしてきたこの一ヶ月でした。まさに彼らにとっては苦行だったでしょう。

断食最後のお祈り
断食最後のお祈り
 その苦行に打ち勝った者だけが明日のイスラム正月(レバラン)を晴れ晴れとした気持ちで迎えら れるのです。

 これは大人も子供も、男も女も、金持ちも貧乏人、政治家も庶民もこの断食行を乗り切った全ての人達が味わえる至福の気持ちなのです。
 この気持ちをレバランは家族みんなで味わうのです。
 そのためにみんな故郷を目指します。
 日本の帰省と同じでこの1週間インドネシアの交通手段はすべて麻痺状態となっております。

イスラム正装
イスラム正装
ホテルの娘も正装?
ホテルの娘も正装?
家族4人がバイクで
家族4人がバイクで
 どうしてイスラム教徒はこのような苦行を一年に一回自分に課したのでしょうか?

 人の苦しみを知る、貧乏だった昔を思う、自分に勝つ修行をする、…色々な理由があるのでしょう。

 のどの渇きを味わった人だけが一滴の水の有難さを知り得る。
 空腹を抱えた人だけが本当の美味しさを味わえる。
 飽食の我々が飢餓の最中にいるアフリカの人達の苦しみを肌で判りますか?
 安全な町に暮らしている我々がイラクの人たちの苦しみを肌で判りますか? 
 苦しみを肌感覚として判ろうとすればその苦しみを我が身に味あわなければならないのです。
 そのためにイラクへ飛べばどうなるか…???。

 今の我々には恵まれない人たちの苦しみ、哀しみは本当には判り得ないのです。
 同じ痛みを味わってない我々が理解できるのはあくまで頭の中で考えた苦しさ辛さであり肌感覚ではないのです。
 偽善者と言っては酷ですが、判ったと言ったら嘘になります。
 我が身の痛さを知らない人は他人の痛さも理解できません。
 何の痛みもなく人殺しが出来るTVゲームは我々に人の苦しみを忘れさせてくれる麻薬でしょう。
 食べ物を惜しげもなく捨てるスーパーやコンビニの存在は我々に本当の美味しさを忘れさせてくれる麻薬でしょう。
 今の世の中になんと麻薬が多いことでしょうか?
 子供達は麻薬の中で生活しているようなものです。
 これではまともに育てと望むべくもないでしょう。
 便利さや効率を豊かさと勘違いして追求した挙句の果てが今の日本の状況です。

 でも我々はまだ心からの反省をしていません。
 地震のニュース見たときは被災者の人たちに同情します。
 そのニュースは暖かい部屋で家族そろって豊富な食卓を囲みながら見ているのです。
 ニュースが終われば同情も終わるでしょう。
 そのような境遇に身を置いたことのない我々に判れと言う方が無理なのです。
 そのような境遇に身を置いたことのない我々の境遇は有難いものです。
 しかし、その有難ささへも苦しさを味あわない我々には感じ取れないのです。
 苦しさを知った人だけが本当の楽しさを味わえる。
 苦しさを知らない人は何が楽しいかもわからない。
 恵まれない境遇を経験した人だけが恵まれない人への心からの愛情を沸かす事が出来るのです。
・ 一年に一ヶ月だけ苦しさに身をおいてその状況を肌感覚に
 刻み付ける…
・一年中この苦しみの中にいる人への共感をたとえ一ヶ月と
 云えども肌で味わう…
・そして、残りの11ヶ月間この気持ちを常に思い起こして
 今の境遇に対する感謝の念をアラーの神に祈りとして捧げる。

・・・この行為に偽善や偽りが少ないとすれば・・・
 それは彼らが断食を経験して本当の苦しさをたとえ一ヶ月と云えども老若男女全てが肌で味わって来たからでしょう。

 断食行の効用はこんなところにあるのではないでしょうか?
 主に後進国で行われているイスラム教徒のプアサ(断食行)が飽食に慣れ自分のことしか考えられなくなってしまった先進国の文明人である我々に他人の辛さを自分の肌で感じられる方法を教えてくれているように思います。