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インドネシア通信、『ワサビで仕返し』…の巻き

 

青唐辛子を見る度に、ほろ苦い思い出が甦って来ます。

 

昔、タラカンからバリックパパンへ林業公社のエライサンと飛んだ折、

飛行機の中で出た食べ物です。

当時は今の格安航空と違い飛んでる最中に飲み物や食べ物が

出たのです。食べ物はこの写真のような青唐辛子を乗せた揚げ物。

 

エライサンが言いました。

『これ、美味しいよ、ガブッといきなさい、がブッと!』

 

ガブッといきました。

口が利けなくなりました。

辛い、ではなく、痛い、のです。

口の中が火傷したようにヒリヒリ痛み、目から涙が出てきました。

温いコーヒーを飲んだら口の中を切ったがごとく痛み出しました。

顔を真っ赤にし黙って耐えるしかありませんでした。

 

多くの駐在員が、インドネシアで受ける洗礼のヒトコマです。

 

時々、チケット(航空券)をくれと言うお役人がいます。

チケットを差し上げても怒ります。

『お前は何年ここに居るんだ、こんなことの意味も判らないのか!』

 

ネゴの場でお役人が言います。

『俺の給料はタバコ代にもならないよ。』

『でもこうして生きている、俺は何で生きてゆけるのでしょう?』

『価格で負けたら買えないよ。でも、価格で勝っても買えないよ(?)』

(もう一つの価格でも勝たなくては…)

 

『製材機の見積価格が安すぎるよ。もっと高く提示して。』

(でもその差額は返してね…)

 

これがインドネシア(当時)のお国柄でした。お役人さん世界の風土でした。

 

でも、中にはエライサンのような人も居たのです。

小職は裏金を使わず林業公社と商売をしました。

その代わり彼等の試験を知らぬうちに受けさせられました。

人の撥ねたぺルプック丸太をそれと知らずに売りつけられたのです。

エライサンは言いました。『お前が買い付けたのは他人の撥ねだぞ』

買ってしまった小職も迂闊でしたが、敢えてそれが撥ね材だと教えて

くれなくても良いのに…、大いに悩みました。

が、買ってしまったものは仕方ない。日本へ配船を要請しました。

船待つ間が憔悴の極み、幾晩も眠れぬ夜を過ごしました。

そして、覚悟の撥ね材積みを実施しました。

 

林業公社のタラカン支店長に呼ばれました。

『貴方は合格だ!』

  『???』

『俺達は貴方を試したのだ。

   撥ね材とわかってからでも船を送ってくるのかどうか。

     船をキャンセルして逃げることも出来たのに、

       貴方は船を廻して撥ね材を積んだ。

                貴方は信用に足る人だ』

隣にニコニコしたエライサンが居りました。

 

それからは裏金を使わなくとも商売が出来る様になりました。

丸太検品もプラウ・サダウという積み地のロッグポンドではなく

伐採キャンプでさせてくれました。

ライバルに先駆けて丸太を選べます。

筏ではなく丸太を選んだのです。

良い丸太を選んで自分の筏に入れ、悪い丸太と差し替えるのです。

プラウ・サダウへ曳いて来た筏は当然ながら、ピッカピカのNo.1。

日本の販売でライバルに負けることがなくなりました。

 

エライサンは部下にも上司にも慕われており、二十歳台半ばの

小職を弟のごとく可愛がってくれました。

タラカン島のぺルプック丸太からヌヌカン島のぺルプック製材まで、

林業公社と長期に亘る仕事が出来たのは偏にこのエライサンのお陰でした。

 

小職の丸太輸出最終船は、1984年12月末積みでした。

林業公社のアガティス製材用撰木丸太1000m3と白メランティー製材用

撰木丸太1000m3をベラウでホールドに積み、タラカンのプラウ・サダオで

ぺルプック撰木丸太2000m3をオンデッキに積むという生涯一度の宝船。

 

12月31日午前0時を境に船舷を越えて中に入っていない丸太はたとえ

クレーンで吊り上げていても海へ戻せ、と言うのが政府からの御達しでした。

12月末ポジションの船をチャーターするのは大きな賭けでした。

積めなければ大損です。

シッパーにも膨大なシャットアウト材が残りますので大損を掛けます。

付き合いのある商社に配船を反対されました。

彼等自身が白メランティー8000m3から製材用撰木をしまくってスタンバイ

させた超優良材に対し配船せず、キャンセルしてしまったそうです。

 

エライサンは言いました。

『俺を信ぜよ、絶対に積んでやる。賭けてもいい!』

賭けなくても積めなければ配船した小職は首です。

エライサン信用すべきか、商社の言を信ずべきか…

小職は配船を強行しました。

 

検品を終えた後、後輩に船積み立会いを任せて小職は帰国。

1984年12月31日午前0時、

上の空で紅白を見、行く年来る年で除夜の鐘を利きながら

ウトウトした小職は夢を見ました。

後輩から電話が入り、『神谷さん、まだ積み続行していますよ!』。

 

正夢か?いやいや世の中そんな甘いものではない、

夢から醒めてボーと考え込んでいた小職の耳に電話のベルが聞こえました。

まぎれもない後輩の声で、

          『神谷さん、まだ積み続行していますよ!』

 

あとでタラカンに戻った小職に、エライサンは言いました。

『よく俺を信用して船を廻してくれた、有り難う。実は税関を買収したんだ。』

何と!、官ー官買収なのでした。

インドネシアのお国柄に救われた最終船だったのです。

 

これが試験に受かった結果なのです。

コンチョ(親しい友人)になれたのです。内懐に入れたのです。

(昔の)インドネシアでは商権は個人に付きます。

法人ではありません。よって名刺はあまり役立ちませんでした。

彼等はみんな名刺の社名より目の前に居る人物から受ける印象の方を

より重視するからです。

どんな組織に所属しているかではなく、目の前に居る人物が信用に足るかどうか、

これが判断の決め手となっていたのです。

小職のような全く名の知られていない木材問屋が、そうそうたる商社に伍して

商売出来たのです。

商売をする相手は目の前に居る人間です。

彼が信用できなければどんな組織に所属しようと意味が有りません。

それが彼等の判断基準でした。

目の前の人間を友人として信用できるかを見極め、一旦信用したら裏切られない

限り、法人としても付き合う。

友人から金は取らない。

これが当時のインドネシア流ビジネスでした。

名刺も肩書きも要らない、『俺は神谷だ!』、で商売が出来る、まるで御伽話の

ような世界でした。

内懐に入れれば全てが上手く行きます。嫌われればそれまでです。

丸太を買うのではなく、己の人間性を買ってもらうのです。

エライサンが辛い試験を通して教えてくれた、インドネシア・ビジネスの要諦でした。

 

タラカンの皆に手紙を残してインドネシアを去りました。

『5年間お世話になりました。丸太が輸出できなくなったので

仕事になりません。一旦帰国します。

ビジネスチャンスが出たら呼んでください。喜んでタラカンに飛んで来ます。』

 

この手紙に応えてくれたのもエライサンでした。

テレックスで『製材をやろう!』、と申し込んでくれたのです。

ぺルプック製材はここから始まりました。

エライサンの旧任地、ヌヌカン島でぺルプックを挽き始めました。

スラバヤで7年半続いた看板プロジェクト、『ALAS MASのぺルプック製材』、

を手引きしてくれたのもこのエライサンでした。

 

でも、仕返しはキッチリしました。

『緑の恨みは緑で返す』

エライサンが来日した折、好機が訪れました。

寿司屋へ行き、『この緑あんこ(gura hijau)は甘いよ!』。

ワサビを口一杯頬張らせたのでした。

 

エライサンは口を利きませんでした。

ただ黙って俯いているだけ、突然鼻水が出てきました。

 

青唐辛子は火傷の痛さですが、ワサビは違います。

インドネシアには無い味(?)です。

鼻から頭へ抜けるツーンとする味(痛み?)

脳みそがグラグラ(gura gura)したことでしょう…。

 

エライサン(達…団体で来日)は言いました。

折角日本へ来たのだから

インドネシアに無くて日本に有るものが見たい!

 

そうですか…

では、一緒について来てください。

 

入ったのは浜松で老舗のストリップ小屋、『銀馬車』。

彼等を出ベソに座らせると、目を光らせて踊り子さんの

踊りを見始めました。しめしめ…。

ところが、佳境に入ると、何と! 逃げ出したのです。

全員スタジオから出て来て外で怒っているのです。

『人間のやることじゃない!!!』

 

では、お詫びにもう一軒…、浜松名物、『おさわリバー』へ案内しました。

お絞りが出た途端、『ギャー!』という悲鳴を残して全員が逃げ出しました。 

店の外まで逃げたエライサンも居りました。

一体日本人は、していい事と、いけない事の区別が付かないのか!

コンなのは人間のやることじゃない!!

 

折角インドネシアでは味わえない所へ案内したのにこの有様。

『インドネシアに無いものを見たい、と言ったじゃない!』

『ものごとには限度と言うものが有る。

          それを乗り越えたら人間ではない!』

 

インドネシアの人は純情です。

スレていないです。

真っ当です。

何せ日本から持ち込む週刊誌のヌード写真の胸を黒マジックで

塗りつぶすお国柄ですから…

個人的に人の目に付かないところでこっそり秘め事を繰り広げるのは

勝手だが、大衆の目に触れるのはまかりならぬ、…と言うお国柄です。

見るよりやる方が易く安い、小職にとっては大変嬉しいお国柄でした。

 

 

ある日エライサンの部下から日本に居る小職に電話が入りました。

   『Bapak Mulyono Died』、

     …『???!』、

     突然のお別れでした。

 

 

青唐辛子事件から30年が経ちました。

もう青唐辛子を食べる愚は犯しませんが、青唐辛子を見る度に

エライサンであるムリヨノさんを思い出します。

 

ムリヨノさんがさんが小職に付けてくれたあだ名、『TARAKAMI』。

”Tarakan” の ”Kamiya” は、今でも小職の勲章です。