第12中隊史戦記を訪ねる  中島苑子

第12中隊史戦記を訪ねる       中島 苑子

 

私の先生が ジャワの地で オランダ軍と戦って そう75年になるか

戦記を訪ねる旅も 何年かかった事か、、、、同じ所を何度も行ったり

さて今回は第12中隊が ジャワに上陸した クラガンヘ

第12中隊はクラガンからチュプーを経て クディリであったが 

私はチュプーからクラガンへと 逆方向です

もう10年以上前に チュプーに寄り 森林公社を訪ねた

公社の森林鉄道に乗りたかったが 折からの雨で鉄路が不通

今回は色々調べたが 年2回程運行の由

しかも予約で10万円以上するらしい

で、あきらめ 車庫に入っている 懐かしの汽車をパチリ

Koharさんに聞くと チュプーは石油産出で有名な所で石油大学もある由

前は気が付かなかったが 石油のおかげで町はかなり大きく

泊まったホテルも かつては華やかであったことが伺える クラシックな作りであった

車の調子が悪く修理に時間がかかり その間ベチャに乗り

チュプー名入りのTシャツを買いに行った

帰国後 戦記を読み返すと チュプーの油田の事が書いてあった

クラガン近くになると 大きな大きな根っこが 道路沿い至る所で売られている

チークか?

日本でもかつては根を磨いて 玄関やホテルなどで飾られていたが

たぶんそのようなものだろう

こんなに沢山 売れるのかしら、、、、

ようやく海岸に着いた

戦記では30mのヤシ林が、、、でも今はない

ちょうどこの町の帰宅途中役人 数人いたので 日本軍の事を尋ねると

幸いにも 中の一人が ”知っている” 

道案内をお願いした 彼の言うに  

 ”日本軍 上陸目印に この場所に3灯台あった でももう用はなくなり   

 27年前に壊して無くなった”

その場所には漁村ができ その狭い路地を子供が走り回り 

小さな魚は地面に ころがっている

灯台のあった所をぬけると 砂浜の先には漁船がいっぱい

クラガンに上陸した日本軍のこの場所は もちろん70数年前の面影はなく

スラバヤへ続く幹線道路は 大型トラックが激しくジャンジャン行き来

家も切れ目なしにずーっと建っていて、、、、

しかし30mの砂浜の先は 、、、この所は漁村

椰子林も、、、漁村の家々 

更に40m進むと 6~7mの舗装道路、、、 確かに今はもっと広い道幅であるが ある

70数年経っていても 大まかな所は変わらないものと思いました

今日本で見られる舗装道路ではなく、

砂利に石油のピッチを撒いたオイルロードでは?

30数年前インドネシアの地方でこの様な道路をよく見たと、同行の者の話

 

12中隊史戦記抜粋

昭和17年3月1日0時  

ジャワ島クラガン泊地に入った  

12中隊は南十字星を目標に上陸地点に向った  

真っ黒な陸岸まで 腹まで海水に浸り 波がくると胸まで水があった  

右前方はるか セラム山が月光にうっすらと浮かんでいたが  

夜のこととて距離は判らない  

砂浜を30m駈けて椰子林に入り 更に40m進むと 6~7mの舗装道路  

更に40mの椰子林を越えた  

チュプーへの道は両側のチーク林や 並木の巨材を路上に伐り倒して祖絶  

2日昼頃に中隊はチュプーに着いた  

油田は破壊されて 油井はさながら 坊主地獄のように  

ぶくぶくとガスを吐きながら うごめいていた  

ソロ河に工兵隊が架けた橋は 夜間の増水で流され  

12中隊は3日もチュプー北方で過ごした 

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歩兵第47連隊 第12中隊史戦記を訪ねる          中島 苑子 

 

昭和17年3月1日 中部ジャワ クラガン上陸

 チュプー、ンガウイ、クデイリ、ジョンバン、スラバヤ、アンボン、アダット、

 ババル諸島、トアール、を経て、昭和21年5月26日 和歌山県田辺港帰国

 

次に私が訪れたのはジョンバンです

この町に入ると急に学校を見たくなりました

幸いなことにガイド、エビットさんの先輩エンダーさんが

MANジョンバン(高校)で日本語の先生をしていました

来訪を告げると校長室に案内され ビロードのふかふかした立派なイスに座って

エンダーさんを待ちます

校長先生が ”今、授業中だからちょっと待って下さい”

壁には歴代校長先生の絵が飾ってあります

(翌年又、このMANジョンバンを訪ねました 校長先生と思ったのは勘違いで、

 本当の校長先生は全く別の人でした)

エンダーさんに案内され、教室にはいると、

元気ですが、ちょっと気恥ずかしい顔の、高校生がいっぱい

エンダーさんはとても丁寧な日本語で、私に話しかけます

でも、”日本人と話したのは初めて” と言われ ビックリ!

”教師になっていろいろ話して下さい”

にわか教師の私は黒板に書きながら(黒板なんて言葉古いですね 白ボードにマジックです)

自分のこと、日本のことを話しました

途中で生徒が ”先生、早すぎて分かりません!!!”

私がインドネシア人と話すとき 彼らがゆっくりすぎても分からなくなるし、

通常の早さで彼らが話すと、もうまるで頭の上を言葉が行き交うのと同じか、、、、、

エビットさんもアデイさんも後ろの席で神妙に聞いています

私は話しているうちに、汗だく ハンカチで何度も顔をふきます ハンカチはぐっしょり

インドネシアでは汗だらだらなんて、

みっともなく恥ずかしいことだと、聞いてはいましたが、仕方ありません

そのうちにお昼のお祈りの時間になり、男子生徒は先に退出

女子生徒に連れられ購買部を、のぞきます

(お菓子、石けん、など私の高校時代おなじみの品が並んでいます)

生徒達は私たちの後を、ついてきます                   

 

ぐるっと一回りして校長先生(と、思っていた人)に別れの挨拶をし、車に乗りますと

あちこちの窓から女子生徒の顔が、、、

”先生、さようなら!!先生さようなら!!!”

突然の訪問でしたが楽しい時間でした

翌年又、MANジョンバンへ行きました

女子生徒もシラットが好きで練習していると聞き

”へ~、あんな長いスカートでどうやっているの?”か、見たかったのです

でも、残念ながらその日は学校が休みで、シラット練習日は木曜日とか

エンダーさんもバリへ行っていて会えず

ご主人のエンデリアデイさん(同じく日本語の先生)が、休みの構内を案内してくれました

この時は生徒が、近く行われる劇の稽古を講堂でやっていました

私たちが行くと、生徒達は皆、恥ずかしがって、ただ記念の集合写真を撮っただけ

そして、この時、ほんとうの校長先生にお会いしました 



学校が休みだったので、ゆっくり落ち着いて構内を散策しました

前年訪れた時も、この時も、クラスの中で女子生徒の方がはるかに多く

男子生徒は少ないのです

なぜでしょうか?

あるインドネシア人に聞きますと、ジャワでは統計的に、はるかに女性が多いから

ある日本人に聞きますと

男子は高校に行っても、早くから働き手となり、途中で止めるから、、、、

私の旅はいつも脱線します

ジョンバンは元大統領ワヒドさん出身地でしたが、前年も、この時も

(実家にはお姉さんがおられるとか)

ワヒドさんの家を見ようとおもいながら時間切れ

次回は本題、第12中隊史 ”ジョンバンの夜戦は口惜しい” その地を探す、です

この写真は昭和55年第12中隊戦友会がこの地を訪れた時のものです
この写真は昭和55年第12中隊戦友会がこの地を訪れた時のものです

第12中隊史戦記を訪ねる

            中島 苑子


:::: 一枚の写真から :::
私の先生から一枚の写真を見せていただきました


“我々は昭和17年3月5日午後3時半 Kediriのこの橋に到達しでオランダ軍と戦った
 当日のスコールで川は満水だったが、さすがオランダ治政 堤は完璧だった“
私はまずこの写真のKediriの橋へ行こうと思いました
Surabayaジャパンクラブで紹介されたいつものガイドKoharさんが
その時ガイドで、Baliへ行っていたので、彼の後輩(Surabaya教育大日本語学科)
Ebitさん(フランス語、日本語ガイド)とAdiさん(同大学4年)が案内でした
私がこの写真の所へ行きたいと言いますと、幸いなことに、Ebitさんが
“Kediriは私の出身地です。この橋はJembatan Tua です。年数回実家に帰ります“
当時私のデジカメは電池がすぐ無くなる大型のもので、沢山写真撮ること到底かなわず、
日本でインスタントカメラを沢山買って持って行きました
しかし、Kediriへ行く前にほとんど使い果たしてしまい、3人で探し回りましたが、
Surabayaではフィルムしかありません
Adiさんが “友達がデジカメを持っているから、大学へ行こう”
Surabaya教育大学近くの寮へ、もちろん男子寮です
“入ってもいい?” “OK”
部屋の広さは4畳くらいかな 部屋の入り口に
“男の部屋”と日本語で書いてあり、思わず笑ってしまいました
床に置かれたパソコンを3人がのぞき込んで何やらやっていました
友達のデジカメを借りることができ、ほんとに ほんとに
“Terima kaih banya !!” です
インスタントカメラを探したり、大学の寮へ行ったりで、
Surabaya市内から出発が大幅に遅れました
Koharさんの運転手さんは50代半ばなのでおとなしい運転ですが
Ebitさんの運転手さんは30そこそこ 
ま、飛ばす 飛ばす 前からトラック、バス、その他諸々来ようが平気で前の車を追い越します
私は後部座席で “キャー、Bahaya、キャー、Bahaya” そればかり叫んでいました
伝え聞くインドネシアの運転はこのようなものであったかと
途中寄り道したこともあり、Kediri には昼1時頃着
まずはトイレと昼食でレストランへ “Nasi Kediri” は、なかなかおいしかった
Jembatan tua へ行く前に Ebitさんが 
“万が一のこともあるので 家によって私のカメラを取りに行きます”
彼の家は静かな住宅地の中にあり、ご両親とパソコンで何やらやっている妹さんがいました
Ebitさんがカメラを持ってくると、挨拶もそこそこに目的の橋へ
Kediriは道路は広いのに一通が多く 目的の所へはなかなか行けません
おかげで、市内見物ができました
“ここは私の中学校です、 オランダ時代の建物です” “なるほど、なるほど”

ロータリーをぐるっと回ると “あ!、橋が見えた 写真と同じ 全く同じ!”
Brantas川のゆったりした流れも同じ
60数年前、私の先生はここで戦ったのかと、感無量で思わず手を合わせ
すべてに祈りを捧げました

橋のたもとにPasarがあり、寄りました
留学生の奥さんNununさんに “おみやげは何がいい?” と聞きましたら
“チャベとか、、 バワメラとか、、、” 
時間は4時頃だったので ほとんどの店は閉まっていましたが、
一軒だけおばちゃんがいて、チャベ バワメラその他、合わせて4Kほど買いました
Nununさんが2番目の子を出産したとき、チレボンから彼女のお母さんが来日
その時チャベ、バワメラをキロ単位で持ってきた話を聞いていたので
大丈夫ではないかと、もし税関で見つかったら仕方がないが、、
3-4日用の小さな私のスーツケースは4キロ近くの野菜でいっぱい(見つかりませんでした)
Ebitさんがもし間違いがあるといけないからと、
Brantas川に架かっている他の橋にも行きましたがやはりこのJembatan Tuaでした
夜7時過ぎにはSurabayaに戻らなくては行けません
ほんの短時間でしたが 
“ともかくここへ来たのだ” という思いを胸にこの地を後にしました
Kediriは大きな街でしたが 何か落ち着いた静かなとても良いところでした
もう一度ゆっくり訪ねたい街です
翌日は帰国です
EbitさんとAdiさんが、デジカメからデイスクに書き込んだ写真を、朝届けてくれ
私はそのCD一枚持って日本へ
なんと便利でありがたい世の中になったものと、感心し嬉しく思いました


ジャワ作戦の第12中隊史:::::抜粋 
 
昭和17年3月5日13:30頃
ケルトソノ橋爆破の爆煙を見、下流に銃声をきいている時、大隊副官武田正明中尉が走せ来て
“クデリ橋占領の目的をもって南進、突進する”と伝えた、、、12中隊は直ちに整列、、、、
中には炊飯中の生煮え飯を飯盒のままぶら下げている隊員もあった
12中隊はバロー プランボン クデリをブランタス川にほぼ沿って南下、、、10分間も走ったであろうか 運転台の屋根に広げた地図を見つめ案じ前方をにらみ、、、、ポツリポツリと降り始めた雨滴に地図が濡れだした、、、、慌てて仕舞うと猛然たるスコール、、、“よしッ この孟スコールの中を乗車したままクデリ橋を突き渡り、対岸に飛び降りて突撃し、一挙に橋梁を奪取してやろうそ“、、、道の両側は殆ど椰子畑で、20米程入った辺りに折々高床の民家があり、
敵の監視兵か歩哨らしき奴が豪雨を避けて軒下に立っていたが,隊員を満載したトラック群に気付くと、次々と家裏に隠れていった。そんな奴等には目も呉れずスコールの中を一途に突進した、、、、全隊員がずぶ濡れと極度の緊張の連続に耐えたのであった、、、クディリ橋まであと
750米、、、両側はすべて椰子畑で高床式三軒長屋に警戒の目を注ぐ、、、、
濃緑色をした敵のバス一台 先頭車の機銃に射ちまくられているのが目に入った、、、、
全員左右に飛び降りて、、、、先制射撃を受けた敵は、路上に、浅い側溝に、椰子畑に倒れ
傷ついて命乞いをしている、、、、前面には案外多数の敵兵が動いていたが、、、
橋まで500米 前方左上空に友軍機の爆音がきこえ、
右上空に百発前後の機銃・自動小銃弾らしき散弾がパチパチと
“オッ ブランタスの対岸には敵がおるぞ”と覚った、、、、右に曲がってスプリオディ通りに出ると、ブランタスの堤防が、、、、12中隊の先頭を見た敵兵達が、左右の家陰、木陰に散って逃げるのを見た、、、12中隊は走らずまっしぐらに突進、、、走ると注意散漫となる、、、両側の敵兵は逃げるのに懸命であった、、、、敵歩哨が日本軍潜入に気ついた時、すでに遅く、、、
年若い歩哨のオランダ兵は日本兵の銃剣を血にそめてこと切れていた
平屋建のクデリ州庁舎裏にトーチカらしいのを見たが、壕一つだに掘っていない敵とは
完全に遭遇戦であった 敵兵の多くは大男のアンボン兵だった
先刻のスコールに大増水したブランタス河は濁流物凄く波立って激動し、
河幅は2-300米にも見えた クディリ橋を荒巻小隊長が右手の軍刀を頭上に立て、
左手で剣鞘を握り背中を丸めて両足を蟹股に左右に踏ん張り先頭を突進、、、、、
その後を分隊が一丸になって突進 まッこと怒濤のごとき突撃であった
東岸に達し、、、、、橋梁爆破装置の点検に、、、、大隊主力が渡って来たので、、、委ねた
3月5日14:30頃12中隊はクディリ橋梁を無傷で完全占領したが、、、、、
人員点呼を終わり、またも12中隊は一名の損傷もなく、、、喜んだが、、、、
友岡上等兵が腹部貫通創を受け、、、、急ぎ後送させたが、
哀しいことに、友岡君は後日スラバヤ病院で亡くなったのであった、、、、、