追憶タラカン “ ふるさと帰り ” の巻 神谷 典明
タラカン島へ来ました。
実に17年ぶりの帰郷です。
昔は4発のプロペラ機でジャカルタの家を朝4時に出て
ジョグジャ ー バンジャルマシン ー バリックパパンと乗り継ぎ
夕方4時にタラカンに着いたものでした。
日本へ帰るのに7時間、タラカンへは11時間。
まさに地の果てと言われた島でした。
それが何とスラバヤからジェット機で2時間。
バリックパパンも経由せずに直行便で行けるのです。
ジェット機が舞下りるタラカン島なぞ 想像出来るものではありません。
舞い降りてみればそこは青春の地。
昔住んでいた家、毎晩呑みに行ったバー、
一人望郷の念に耽った海岸、毎日丸太検品した海、
…全てが昔のままにありました。
青春の全てをつぎ込んで買い付けていたペルポックの丸太以外は
全て昔の通りにありました。
ここで泣きここで笑い、気の狂いそうなスランプや思わぬ事故、
飲み歌い、踊り、惚れて惚れられて…25歳から30歳まで
わが青春の全てを埋め尽くした地なのです。
52歳になった今、再び訪れることが出来るとは思っていませんでした。
定宿にしていたタラカンプラザホテルの部屋もなんら20年前と変わるところなく、
思わず20年前の写真と同じポーズでボーイに写真を撮ってもらいました。
今回のタラカン訪問はNHKラジオの取材に協力するための、旅行です。
先着していたNHKの妙齢のディレクターとお会いしました。
小職が通訳を買って出るつもりでしたのに、何と彼女は、インドネシア語がベラベラでした。
大学で正式にインドネシア語を勉強された後、
NHKに入社後もインドネシアの国営放送TVRIに研修駐在されたそうです。
小職なんぞが仕事の現場で肌で覚えた言葉は恥ずかしくて
彼女の前で喋れたものではありませんでした。
弁が立ち頭の回転が速く美人でスタイルも良し…
世の中にはこんな人も居られるのですね。
彼女の目的はタラカン島にあるFMラジオ局の訪問。
何とタラカンにNHKラジオ放送の一部をインドネシア語に翻訳して
流している局があるのだそうです。
昔、日本軍が石油欲しさに占領して、そして玉砕した島、
昔、日本の木材屋が丸太欲しさに駐在して騙された島、
そんな島に日本語ブームが起こっているのだそうです。
そういえば小職の友人が子供を通わせている幼稚園も
中国語と日本語を教えてくれると言っていました。
青春を埋めた島に日本語ブームが起きるなんて…夢。
あの娘も子供に日本語を習わせているかしら…
…俺のことを思い出して…
タラカンはまさに夢の島でした。
”追憶タラカン ”
私記 インドネシアがらみの20年間を総括して 神谷 典明
サマリンダの花 フリーダちゃんは今頃何処に? の巻
1980年台初頭の東カリマンタン州都
サマリンダ市に T.H.G. ( taman hiburan???)という名の屋台街がありました
通り沿いに屋台が並んで出ており 売り物は可愛いお嬢様が屋台の中から
相手してビールを飲ませてくれること
1屋台に一人から二人のお嬢様がついているのです
他に行く所の無い日本人駐在員達は 三々五々待ち合わせて ここへ繰り出します
可愛いお嬢様の中でも特に日本人に人気があったのは
フリーダちゃん 19歳 メナド出身
小生も毎月タラカンから 船積み実績調査名目でわざわざ 飛行機に乗って
フリーダちゃんの屋台へ通いました
当時タラカンをクリアランスポートとする
タラカン、ブラウ地区から 毎月13-14万立方の原木を
そしてマハカム河流域とサンクリラン地区を背景としたサマリンダをクリアランスとする
船が30万立方ぐらいの原木を日本に向けて運んでおりました
そのためサマリンダには トーメンを除く日本総合商社の駐在事務所が
すべて在ったのです(トーメンはより海よりのバリックパパンに事務所がありました)
よって日本人の多さはタラカンの比では有りませんでした
T.H.G.へ行けば必ず誰かと会えました
当時期待を裏切らず 必ず日本人と会える場所は
このT.H.G.とバリックパパンの空港待合室だけだったでしょう
ある夜 一人でフリーダちゃんの前で飲んでいますと
横からチラチラ小生を伺い見る不審な華僑の若造が居ました
そのうちに ”神谷君?”と声が掛かりましたので一体誰かと辺りを見回しますと
”俺 俺だよ!”とその華僑が言います
一体お前は誰だ、、、という目で彼を見ますと
”岡崎のHだよ”と言うではありませんか!
何と連尺小学校 城北中学校 岡崎高校と同級生であった H君なのです
お互いからだが小さく 小中学校では級友に軽く扱われていました
その反動と柔道一直線桜木健一の影響を受けて 高校入学後 申し合わせたように
二人は柔道部へ入ったのです 一緒だったのはそこまで、、
卒業後彼は確か一浪して三重大学の林科 小生も一浪して 名古屋大学の林産学科へ
その後は離ればなれの相まみえる事なき人生を別々に歩んで来たのです
それがなぜ?
しかもボルネオ島のサマリンダで?
尚且つ T.H.G.で? 尚且つ 尚且つ フリーダちゃんの店で相まみえるとは、、、!
積もる話によると 彼は大学卒業と同時に合板メーカーへ就職
そこから丸紅へ出向してサマリンダ駐在をしていたのです
”よくぞこの広い世の中で 偶然とはいえお互いが憧れている
フリーダちゃんの店で再開を果たすとは”、、、、感激の硬い握手!
”企業秘密とお付き合いの矛盾はどうしたら解決できるか?”
”最適な原木検品の仕方と最適な船積みアテンドの仕方は?”
”フリーダは日本人と結婚したいと言うが これは本音か お愛想か?”
”サマリンダの木材駐在員はフリーダに関して紳士協定を結んでいる
彼女を映画に誘う事までが許される限度であり それ以上に手を出すと
ここの日本人社会から放り出されるので気をつけられたし、、、、”
等等、お互いの駐在経験から導き出された情報を交換し合いながら
旧交をを温めたのでした
これから毎月ここで会おう!
今後の成長をお互い確かめ合おう!!
そして 三河男児の生き様を皆に見せてやろう!!!
感激の硬い握手を交わして小生はタラカンへ戻りました
それから今に至るまで彼とは会っていません
彼はそれからしばらくして急性肝炎を患い 帰国してしまいました
志なかばでの帰国はさぞかし悔しかったでしょう、、、
さぞかし盛大に後ろ髪もひかれた事でしょう
そういう小生も同じく急性肝炎を患い シンガポールで英国系大病院へ
強制入院憂き目に会いました
そしてその後しばらく禁酒節酒の地獄も味わいました
フリーダちゃんはその後 サマリンダの国立ムラワルマン大学農学部へ
日本政府ODAを受けて電子顕微鏡を導入するというプロジェクトで
短期滞在していた日本人電気技師と本当に結婚して日本へ行ってしまいました
あの言葉は本気だったのです
我々も独身でしたから口説く資格は大いにあったのに、、、
なぜ彼だけが我々のマドンナを射止められたのか、、、?
それは彼が紳士協定を知らなかったからです
単純に屋台に通い詰めて 口説き落としたそうです
そしてこの回想締めくくりの真実
急性肝炎はフリーダちゃん屋台の氷が原因だったのです
冷蔵庫のない屋台ではビールを冷やす手だてがありません
そこでビールを氷で割るのです
水には神経質な我々も この氷が製氷工場からの物だったとは
知るよしもありませんでした
フリーダちゃんに酔い フリーダちゃんに散った駐在員達でした
笑話
Mengapa telapak kaki gajah datar ?
Karena baru loncat dari pohon tinggi
dari " Buku WaH"
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oleh: Tante Wah
SBY裁判所正面玄関前
私の定番観光コース SBYの裁判所で (S)
::若者のドラッグ::
裁判長 ”enak? ”
若者 ”enak! ”
裁判長 ”rasanya? ”
若者 ”mabuk! ”
このくらいのインドネシア語なら理解
思わず ケラケラ笑ってしまいました
ドラッグの生産地はAcehとかで
津波の被害で品薄
そのため最近捕まる青年少なしと、、、
追憶タラカン、、、
私記 インドネシアがらみの20年間を総括して
神谷 典明
いとしのタラカン島 の巻
タラカン島はインドネシア共和国、
カリマンタン島の最北部に張り付いている小さな島です
人口は1979年当時、全島でも3万人ぐらいと聞きました
バイクなら東西へも南北へも、ほんの20分も走れば町を抜けてしまいます
ぐるっと町全体を一周しても、1時間とはかかりません
そんな中におそらく2万人程が住んでいたのでしょうか、、、
そして、私もその一人だったのです
話によるとタラカン島は、あの有名なパレンバンの落下傘降下よりも 日本軍が最も早く進駐した地なのだそうです
その理由は、、、、”油田 ”
町を少し離れると、そこはもう油田地帯
オランダ統治時代に立てられ原油汲み上げ鉄塔があちこちにあり
その下でロバの形をしたポンプが今でも原油を汲み続けているのです
日本軍はこの油田を押さえんがために進駐したとのことです
しかしその後、連合艦隊が島に来襲し、丘の形が変わるほどに
艦砲射撃を行い、日本軍を敗走させたのだそうです
そのため日本人墓地がありますし、軍票や貨幣も出てきます
横井さんのような隠れ日本兵の話で賑わった時期もあったそうです
タラカン島に生えている木は、中から砲弾の破片が出ることがあり
タラカン本島の原木は買い付けるな、と上司に言われました
楽器で有名なY社が、金属探知器を使ってアガチス原木の
検品をしたという有名な話があるほどです
一度だけ小生は、この命令を守らずタラカン島産
ペルポック原木を買い付け輸出したことがあります
矢張り砲弾の破片が出たそうで、顧客の帯鋸を吹っ飛ばしたそうです
シッパーにクレームを入れましたが、
日本軍の砲弾なので、その子孫たるお前が持って帰るのは当然!!と
一喝されてネゴに負けてしまいました
当時ジャカルタからタラカン島へ来るには 約12時間掛かりました
鳥も通わぬタラカン島、、、日本へ行くよりも時間が掛かったのです
朝4時にジャカルタの国内専用クマヨラン空港へチェックイン
ジェットが飛ばないので双発のプロペラ機で先ず、ジョクジャへ
そして次は海を越えて南カリマンタン州都、バンジャルマシンへ
更に東カリマンタンの石油基地、バリックパパンへ
そして、ここで小さな飛行機に乗り換えて、
いよいよタラカン島へ到着したのは夕刻4時、
つまり丸々12時間掛かったのです
朝早くにジャカルタを出た訳は、タラカン空港に照明設備がなく
有視界で着陸する関係上、日が暮れる前に着く必要があるためです
出張時は、いつも朝寝坊防止を兼ねて、明け方2時まで
ブロックーMで飲み明かし、タクシーで宿舎へ立ち寄り荷物を取って
そのまま空港へ向かうという強行軍でした
眠さと二日酔いで、バンジャルマシンに着くころには、いつもフラフラ
一度自分の乗る飛行機が目の前で、プロペラを回しているのを
夢の如く見ていたことがあります
”saya mau naik !、、、乗るぞ ”と
大声で叫び、走り、タラップを降ろしてもらい事なきを得ました
しかし、タラカンの宿舎に着き、
マンディー(水浴び)を終えて夕焼けを見る頃には
もう青い灯、赤い灯にムズムズするほど若かったのです
当時のタラカンには石油関連の白人掘削技師達が駐在しておりました
カリマンタン本島から伐出して来た原木の積み地でもありましたので
日本人も、木材の開発輸入を担当する商社マン
マングローブに生息している”バカウ”という木を粉砕輸入するチップ屋さん
同じくマングローブに生息する海老を加工輸入する えび屋さん
そしてそれらを積みに来る船の船員さん、、、と、
夜の娯楽需要は大変大きかったようです
そのため場末のバーが十数軒もあり、更にはナイトクラブさえも
こんな小さな島に、ニルワナとバッテラーという2大ライバル店がありました
娯楽のないカリマンタン他地区の駐在員からは、”タラカン詣で”と
称されるぐらい、タラカンへの出張は喜ばれておりました
夜の蝶は、そのほとんどがジャワから流れてきた使い古しなのですが
需要が価値を決めるわけですので、国際競争の結果を充分反映した
値札をつけておりました
バーもナイトクラブも中は暗く、なるべく蝶の表情が判らぬよう
配慮されておりました(判ったときはもう手遅れです)
それでもNTB(non time booking)と称して、
前渡し金で縛り、幾日も蝶を独り占めしようとする華人や
初物狙いの華人もいて、金のない若輩を悔しがらせておりました
ホテルといえるものは3つ
町中のミラマホテル、郊外のバッテラーホテル、そしてタラカンプラザ
それ以外にプギナパンと称する連れ込み、商人宿が多数ありました
バイクとプギナパンには大変お世話になりました
小生の家からは、タラカンプラザが一番近くいつも入り浸っておりました
レセプションの娘達と仲良くなり、
日本人客が来たら電話をかけて、と頼んだのです
電話が来ると早速手ぬぐいを持って飛んでゆき、相手かまわず
”ここで駐在している日本の材木屋です 風呂を貸して下さい”と頼むのです
そして久しぶりにお湯につかり、久しぶりに日本語を使い
久しぶりにその日本人を誘って飲み、且つ遊ぶのです
こうして出来た人脈は連綿と20年を過ぎた今に至るまで
繋がっております
かように異国の地で結ばれた縁は深きものです
笑話
Gambar apa ini ?
Kucing sedang manjat tiang Listrik
dari "Buku WAH"
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oleh : Tante Wah
追憶タラカン、、、
私記 インドネシアがらみの20年間を総括して
神谷 典明
漂流は怖い、の巻
漂流は怖いです。
マラリヤより怖いです。
昔、こんな事がありました。
今から20年前 日本からお見えになったVIP待遇顧客 N氏と、彼を案内してきた上司 M氏を
ボートでタラカン島から更に北に位置するヌヌカン島へ検品に向かいました。この両島の距離は、
カリマンタン本島内の曲がりくねった河中を走る通船で一晩、外洋を突っ切って走るスピードボード
を使えば、5時間程です。
薄暗い夜明け前にタラカン島を出発するつもりでしたが、給油等でゴタゴタし、結局出発できたの
は日が昇ってからでした。
なにやら胸騒ぎがしたので、ボートの運転手に”スペアーパーツの準備は大丈夫か、、、”と念押
ししたことを今でも覚えております。
この遅れがひびいてヌヌカン島着も、仕事終了も遅れました。
夕刻の海を見つめ、帰るべきか帰らざるべきか迷いました。
ヌヌカン島には外国人が泊まれるようなホテルは全くありません。
あるのはプギナパンと呼ばれる木賃宿、各部屋にはベットがあるのみ。
共同シャワーも共同トイレも床がヌルヌル、水は歯磨きと言えども、あるのはドラム缶での汲み置
きだけ。
夜になれば10時で電気は止められ、停電となってしまうので恐ろしくてトイレにも行けません。
辛い仕事をやっと終えて、ましてやVIPを伴っているのにこんなところで泊まれるか!
レストランもバーもデイスコもホステスも無い、こんな田舎に泊めたらアテンダーの名折れ、VIPも
上司も嘆くだろう、、、
正直にこの状況を伝えた上で「帰りたいですか?」と 聞けば当然「帰りたい。」と答える、、、
当たり前のことですがこれが正義となりました。
こんな所にVIPを泊めてはいけない。
是非文明のあるタラカン島に泊まって頂かなければ、、、、
白く波頭立つ河口を望見しながら ヤバイな、、、、とは思いました。
早く河口を突っ切って海へ出よ!
海へ出さえすれば恐ろしい河口の三角波も消える。
思いっきり突つ走れば午前様も避けられる。
上手くいけばデイスコのかんばんにも間に合う。
そう叫びながら出発しました。
しかし行くしかないと思ったのは全くの間違いでした。
夜風を受けて突っ走っていたボートに奇妙な音が混じり始め、とうとうプラグ関連のエンコを起こし
てしまいました。
交換用スペアープラグを持ってきていないのです。
あれほど出発前に念を押したのに。
修理したくとも波間に漂う船の上、上下にうごめく懐中電灯の光では何も出来ず、昼間でしたら近
くを通る船を呼んでプラグを借りるか曳航してもらうか出来ますが、夜中の真っ暗な海では 幽霊船
しか通りません。
運を天に任せて漂う以外打てる手はなし。
全て小生の判断ミス。
お客さんに”このままでは 流れ流れて黒潮に乗ってしまい、日本に着いたらミイラですね”。
思わず悪い冗談が出てしまいました。
”子供たちの顔が目に浮かぶ、、、” VIPは真剣に怖がっていました。
全ては後の祭り、。
夜中の真っ暗な海を漂っておりますと 誰も口をきかなくなってしまいます。
冷え冷えとした不安に駆られてしまうのです。
自分が座っている板に目がいきます。
脇のガソリンポリタンクに目がいきます。
上司の目もVIPの目も同じです。
船が転がったらこの板は俺のものだ。このポリタンクも俺のものだ。
いやらしい戦いが目線だけで交わされます。
誰も口をききません。
上司といえどもVIPといえども人間関係はここまでですね。
所詮自分以上にいとおしい存在はこの世にはないのです。
暗い波間で人間の本質を探る戦いが、静かに深く繰り広げられたのです。
遠くで明かりのようなものが見えました。
あれはいったい何だ? 幽霊船か? 幻影か?
船頭が叫びました。 ”ブニュウ島だ!、、、助かった!”
海底油田のキャンプがあるブニュウ島の明かりが見えたのでした。
”漕げ!!”上司が叫びました。
Yes Sah!、、、 我々は漕ぎました。
座っていた板を引きはがし櫂にする者。
履いているビーチサンダルを両手にはめ、水掻きする者。
皆必死で漕ぎました。
灯りへ向かって漕ぎました、、、生に向かって漕ぎました。
タラカン島へ着いたのは夜が明けてからでした。
いったい昨夜は何だったのだろう、、、?
人間不信と友情を一晩で味わった、幻のごとき思い出です。
(本当にあったことなのだろうか、、、????)
今回はこれで。
笑話
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Saya tidak tahu , Pak .
dari " Buku WAH "
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oleh : Tante Wah