追憶タラカン “ ふるさと帰り ” の巻  神谷 典明

       

タラカン島へ来ました。
実に17年ぶりの帰郷です。
昔は4発のプロペラ機でジャカルタの家を朝4時に出て
ジョグジャ ー バンジャルマシン ー バリックパパンと乗り継ぎ
夕方4時にタラカンに着いたものでした。
日本へ帰るのに7時間、タラカンへは11時間。
まさに地の果てと言われた島でした。
それが何とスラバヤからジェット機で2時間。
バリックパパンも経由せずに直行便で行けるのです。
ジェット機が舞下りるタラカン島なぞ 想像出来るものではありません。

タラカン島
タラカン島
この海の向こうは日本
この海の向こうは日本
アガチスの大木
アガチスの大木

舞い降りてみればそこは青春の地。
昔住んでいた家、毎晩呑みに行ったバー、
一人望郷の念に耽った海岸、毎日丸太検品した海、 
…全てが昔のままにありました。
青春の全てをつぎ込んで買い付けていたペルポックの丸太以外は
全て昔の通りにありました。
ここで泣きここで笑い、気の狂いそうなスランプや思わぬ事故、
飲み歌い、踊り、惚れて惚れられて…25歳から30歳まで
わが青春の全てを埋め尽くした地なのです。

52歳になった今、再び訪れることが出来るとは思っていませんでした。
定宿にしていたタラカンプラザホテルの部屋もなんら20年前と変わるところなく、
思わず20年前の写真と同じポーズでボーイに写真を撮ってもらいました。

マラリアに震えたタラカンプラザの部屋
マラリアに震えたタラカンプラザの部屋
52歳の今
52歳の今

今回のタラカン訪問はNHKラジオの取材に協力するための、旅行です。
先着していたNHKの妙齢のディレクターとお会いしました。
小職が通訳を買って出るつもりでしたのに、何と彼女は、インドネシア語がベラベラでした。
大学で正式にインドネシア語を勉強された後、
NHKに入社後もインドネシアの国営放送TVRIに研修駐在されたそうです。
小職なんぞが仕事の現場で肌で覚えた言葉は恥ずかしくて
彼女の前で喋れたものではありませんでした。
弁が立ち頭の回転が速く美人でスタイルも良し…
世の中にはこんな人も居られるのですね。

いつも向い側に誰かが居た
いつも向い側に誰かが居た

彼女の目的はタラカン島にあるFMラジオ局の訪問。
何とタラカンにNHKラジオ放送の一部をインドネシア語に翻訳して
流している局があるのだそうです。
昔、日本軍が石油欲しさに占領して、そして玉砕した島、 
昔、日本の木材屋が丸太欲しさに駐在して騙された島、
そんな島に日本語ブームが起こっているのだそうです。
そういえば小職の友人が子供を通わせている幼稚園も
中国語と日本語を教えてくれると言っていました。
青春を埋めた島に日本語ブームが起きるなんて…夢。
あの娘も子供に日本語を習わせているかしら…
 …俺のことを思い出して…
タラカンはまさに夢の島でした。

追憶タラカン “ 森の女王アガティス ” の巻  神谷 典明

       
果物の王様はドリアン、女王様はマンゴスチン

カリマンタンの森には
王様と呼ばれる木と女王様と呼ばれる木があるのをご存知ですか?

王様と呼ばれているのは “KAYU RAJA”…(カユラジャ)、
女王様と呼ばれているのは “AGATHIS”…(アガティス)。
いずれも樹高が他の木より格段に高く、枝下が長くスラッとしていて、
遠めに見ても大変目立つ実にスタイルの良い木です。
特にアガティスは『小股の切れ上がった』、とでも表現しましょうか…
幹には蛇の鱗の様に小豆色の樹皮がびっしりと巻きつき、
傷からは樹液が豊富に流れ出るため色々な昆虫が集まってきます。
この樹液は高級ニスの原料になるそうで、
ジャワ島では樹液採集のために、大量の植林をしているほどです。

天然のアガチスは通常標高1000M以上の高地に生えているため、
伐採現場の山奥に入ってゆく我々のような原木バイヤーや
伐採人足以外の一般人が実物を目にする機会は殆ど有りません。
しかしこのタラカン島には低地アガチスと称して、
なんと丘陵地帯にこの木が生えているのです。
この木が生えている場所は森林公社(INHUTANI社)が公園として整備し、
タラカン島の若者に絶好のデートスポットを提供しておりました。
ここへ行くには車かバイクが必要です。
よってタラカン島在住の若者の間では
バイクを持つことがもてる最低条件となるのです。
小生も友達のバイクを借りて無免許でナイトクラブの娘を日曜日に呼び出し、
後ろに乗せてここへデートに通いました。

この木を目の当たりにした数少ない(唯一の?)日本人女性が女房です。
新婚旅行でタラカン島へ立ち寄った際、
この思い出の公園へも例のごとく、オートバイの二人乗りで行って来たのです。
タラカンの町を女房と二人で歩きますと、
すれ違うナイトクラブのホステス達が小生の腕をつねります。
 『今度は中国人の彼女か…』 と。
一緒に写っているのは小生のパートナーである原木伐採輸出業者の娘さん達です。
当時高校1年生、名前はLISーERTI…リスエルティ:林麗麗(横はお姉さん)
その清純な美しさ、愛らしい瞳、花のカンバセ…彼女とすれ違うたびに
我が心は揺れたものでした…(新婚旅行のこの時でさへも)

アガティスは当時南洋ヒノキとか南洋スギと称しておりました。
こういう木々は色物と称して、いわゆるラワン材とは一線を画しておりました。
こういう木を扱う小生のようなバイヤーは、色物屋とか雑木屋とか呼ばれ、
王道を歩くラワン買い付け商社マンからは一段低く見られる傾向がありました。
しかし、樹種が多岐にわたるこう云った非双葉柿科系樹種を買い付けるには、
木を見分ける目利きがよりシビアーに要求されます。
『こちらこそ本当の材木屋なのだ』、とひそやかな自負心を抱いておりました。

当時ヤマハがこの木を住宅用ドアーに使用しており、この木の安定確保を
得るために自家林区までここタラカン島の対岸に取得していました。
そのヤマハの伐採下請けで財をなした業者の一人がGUIお爺さんです。
彼の会社は社名もずばり、“KAYU AGATHIS社”…(アガチスの木会社)
ヤマハから受けた恩をそのまま社名にしてしまったのでしょう。
彼は当時でも既に70歳ぐらい、小生から見れば祖父の如き人でした。
そこで私は彼のことをkakek(カケ…お爺さん)と呼んでいたのです。
昔はジャワ島2番目の大都会であるスラバヤ市に住んでいたそうですが、
スカルノからスハルトへと替わる政権移譲(実態はクーデター)の際発生した
赤狩りに会い、華僑は共産党員との認識の下で殺されそうになりながら、
ボルネオの北端、このタラカン島まで逃げて来たのだそうです。
大変苦労されてこのタラカンの地に根を生やし、雑貨店『TOKO CENTRAL』、
土建屋、木材屋などなど、多くの子供達と共に多角経営をしておりました。

あるとき彼から原木を買い付けました。
原木禁輸策が発令される少し前でしたので、果たしてこの原木を禁輸前に積み
出せるものかどうか、本船の動向をひやひやしながら見守りました。
えてしてこういうときに限って本船が遅れて入港してくるものです。
荷役期限が迫る中、タラカンの町からボートで30分ほどのローディングポイントである
プラウサダオ(SADAU島)で荷役を開始しました。
タラカン本島との間での海峡積みなのですが,
運の悪いことに大潮に当たってしまいました。
きつい潮の流れに筏がバラケてしまい、遅々として船積みは進みません。
時間は過ぎ行き刻限は迫る。
刻限までに積み切れない丸太は輸出出来ずに腐ります。
そうなればGUIお爺さんの損失は計り知れないものになります。
彼の会社も潰れます。
まるで炎熱商人のごときシチュエーションです。
ハラハラどきどき…とうとうグイお爺さんは心労の余り倒れてしまいました。
彼の息子の嫁さんがわざわざボートで本船まで乗り付けてきて
その事を伝えてくれました。…『どうかお爺さんを助けて…』と。

丸太を積み終えたら禁輸刻限を過ぎてしまいました。
税関役人を買収し、更には船長に頼んでタラカン港での出港手続きの際、
目に付かぬようわざわざ港から遠く離れて碇を下ろしてもらって万全を期しました。
本船が無事出港するとき、船長が『さようなら』という意味を込めて
ボーと汽笛を鳴らしてくれました。
グイお爺さんと一緒に雑貨屋の屋根から様子を見ていました小生は、
この汽笛を聞いて思わず涙がこぼれました。
お爺さんはズーと船を眺め続けておりました。

アガチスの買い付けは難しいです。
この木もアテと称する欠点があり、この存在の有無を丸太の外面から見抜くには、
それなりの眼力と経験が必要なのです。
アテがありますと挽き出した板は狂いやすくなり、思ったように仕上がってくれません。
美しいものは気位が高く扱い難いものなのです。
でも…だからこそ、男達は美しいものを欲するのでしょう!!!

上写真:アガチスを見た唯一の(?)日本人女性
 背景の木は低地アガチス 
下写真:
LISーERTIさんとお姉さん

1

”追憶タラカン ”
私記 インドネシアがらみの20年間を総括して
                  
神谷 典明
 少年ケニアの夢 の巻  

昭和20年代生まれの男の子は少年ケニアに憧れました
ハリマオにもしびれました
しかし歳を取るにつれて そんな憧れは萎んでいったものです

ところが私は違います
馬鹿のようにその憧れを追い求めました
成人して尚更 その憧れは膨らみました
少年ケニア
少年ケニア
高度成長時代の当時盛んに  
”南方材の開発輸入”
という言葉が叫ばれておりました
大学3年次 助教授の紹介で
当時豊田通商が行っておられた    
マレー半島中央部 ゲスマ地区における森林開発現場を実見するに至り
これは自分に与えられた天職だとさえ思うようになったのです
その結果、、、、、、
いきなり南方エージェント会社へ就職しようとして失敗
合板工場研修を経て研究生と云う名目での大学への出戻り
出戻りを隠してパスした天龍木材への新卒入社
社長室社長秘書配属への驚きと落胆
マレー語ができるとの情報操作による見事な営業への配転達成
と云う実にめまぐるしい2年を過ごして 
やっとの思いで辿り着いたタラカン島駐在という仕事でした

先ず少年ケニア的雰囲気を味わなければ、、、、、
キャンプ入りしてすぐ 木馬道上にぶら下がっている蔦に飛びつき ハイポーズ
途端に十数メートルにも及ぶ蔦が切れて落下
危うく頭に当たり首の骨を折るところでした
あっという間に小屋掛けしてくれたのはいいが ここで寝るのか?
飯を炊いてくれたのはいいが これを俺が食うの?
飯は石混じり 虫混じり
一体この飯を炊いた水はどこから?
この黒いスープは?
このコーヒーはどの水で?
、、、、、なんと水溜まりの水でした
水溜まりの水や川の水は それ自体が黒褐色をしているので
白湯では気持ち悪くて飲めません (大体白湯にはなり得ません)
そこでコーヒーを入れて色付けしてしまうのです
黒を黒で消す
しかし飲み干してはいけません
いくらコーヒーだから黒いといっても 元は水溜まりの水
底にはヘドロが溜まるからです
おかずは乾き納豆 (テンぺ)の炒めものと インドネシア流えび煎餅(クルポック)
                     
夜になると 
バナナや椰子の葉っぱで葺いた
壁や屋根から星が見えます
雨が降ってくると
この葉っぱが湿気を吸って膨らみ
隙間を埋めてくれますので
水が入ってきません
さすが少年ケニア的生活
と、喜んでばかりもおれないのです
虫がくるのです 蛇が来るのです
日本では想像もつかない
自分の手も見えない漆黒の闇
この飯食えますか???
この飯食えますか???
突然腹の端からモゾモゾと、、、慌てて起きかけると止められました
ジーとしておれ! と隣からの低い声
モゾモゾ、モゾモゾと何かが腹の上を横断してゆきます
過ぎ去った頃合いを見計らってマッチを擦って ギャー!!!
30㎝はあろうかというムカデでした 太さは小指並

朝起きればもっと大変 トイレはどこ、、、? どこでするの、、、?
刺のあるロタンに気をつけながら藪をかき分け
なるべく人目につかぬところへ 
そして足場を固めて草につかまり おもむろに、、、、、、
そこへ蚊が来るのです 剥き出しの部分に向かってブーンツと
何匹も飛び廻っているのです
手で叩こうとすれば 自分の出したものの上に仰向けに倒れます
叩かなければ痒いです いい加減に叩くと手につきます
叩こうか叩くまいか、、、草を握っている手が震えます
そして、ふと気が付けば、、、紙はどこ?

キャンプ入り前に正露丸を10粒飲むという知恵がつきました
出さなければいいのです こんなに苦しまないで済むのです

キャンプには伐採人足がたくさん居ます
遠くセレベス島から出稼ぎに来たブキス族の連中です
気のいい連中ですが 気は荒いです
木をはねると怒ります でも 
不適原木をはねるのが私の仕事です
寸検をごまかします 
この摘発も私の仕事です
結果喧嘩になります
怖いです
筋骨隆々の黒い体に 
パランといわれる青竜刀みたいな物を
手にしているのですから
でもこれで退いては仕事になりません

 

ここで寝れますか?
ここで寝れますか?

彼等も重たい思いをしてこの木を奥から引きずり出してきたのです                         セレベスに残してきた家族に送金をしなければならないのです
その思いを汲んで 1本戻して2本はねる
その逆はダメです なめられます

お前達も苦労するな、、、 家族の為に遠くカリマンタンまで出稼ぎに来て
俺も同じだ
もっと遠くの日本から お前達と同じように家族のために 出稼ぎに来ているのだ
この木をはねないとくびになる 家族が路頭に迷うのだ
俺たちは同じ境遇のカワン(友達)ではないか!
1本はお前達家族のために戻す 2本は俺の家族のためにはねさせろ!
男と男の話し合いなのです そして彼等も判ってくれます
国を違えても同じ哀愁(?)を抱えた男同士なのですから

こんな気のいい男達を本当に怒らせた事がありました
原木を筏に組んで積み地まで出せば彼等に伐採請負金を払う約束なのです
ところが当時私の所属していた現地輸出業者は金回りが良くありませんでした
輸出キャンセルトラブルにより ついに支払い不能に陥ってしまったのです

ジャカルタ本社から運転資金を送ってきません
天龍木材から出向してこの業者のタラカン支店長を勤めていた私は
必死に町のサプライヤーや友人に金を借りて凌いでおりましたが ついにお手上げ
とうとう彼等が大挙してキャンプから出て タラカンの家に押しかけてきました

ここのボスは誰だ! 約束通り金を払え!
事情を説明しても解ってはくれません
俺達はカワンではないか! なぜ俺達を苦しめるのだ!
金を払え!、、、、、払わなければこの家に火を付けてお前も殺す! 

家の周りに彼等が座り込みを始めました
皆 足の靴下の中に短剣を挿しております
近所の人たちも怖がって近づきません
私が外へ出ようとしても出してくれません
幾日もこのような日々が続きました
ある晩遅くに私の現地従業員達より注進が入りました
今晩逃げろ!、、、 彼等は本気になってきた と
彼等の手引きで夜中に裏口から抜け出して町のホテルへ 早朝空港へ 
そのままジャカルタ経由で 情けないことに私は日本まで逃げ出したのでした

数ヶ月振りにタラカンへ戻ってみますと 何も残っていませんでした
家財道具も事務用品も、、、私の衣服や靴までも
でも 全ては金を払わなかった私達が悪いのでした
私の着古した下着まで持ち去った彼等に申し訳なく、、、泣きました

初め楽しく
終わり哀しい
少年ケニアでした

1

ブギス族と共に
ブギス族と共に

”追憶タラカン ”

   私記 インドネシアがらみの20年間を総括して     神谷 典明

   サマリンダの花 フリーダちゃんは今頃何処に? の巻 


1980年台初頭の東カリマンタン州都 
サマリンダ市に T.H.G. ( taman hiburan???)という名の屋台街がありました
通り沿いに屋台が並んで出ており 売り物は可愛いお嬢様が屋台の中から
相手してビールを飲ませてくれること
1屋台に一人から二人のお嬢様がついているのです
他に行く所の無い日本人駐在員達は 三々五々待ち合わせて ここへ繰り出します

可愛いお嬢様の中でも特に日本人に人気があったのは
フリーダちゃん 19歳 メナド出身
小生も毎月タラカンから 船積み実績調査名目でわざわざ 飛行機に乗って
フリーダちゃんの屋台へ通いました
当時タラカンをクリアランスポートとする
タラカン、ブラウ地区から 毎月13-14万立方の原木を
そしてマハカム河流域とサンクリラン地区を背景としたサマリンダをクリアランスとする
船が30万立方ぐらいの原木を日本に向けて運んでおりました
そのためサマリンダには トーメンを除く日本総合商社の駐在事務所が
すべて在ったのです(トーメンはより海よりのバリックパパンに事務所がありました)
よって日本人の多さはタラカンの比では有りませんでした
T.H.G.へ行けば必ず誰かと会えました
当時期待を裏切らず 必ず日本人と会える場所は
このT.H.G.とバリックパパンの空港待合室だけだったでしょう

ある夜 一人でフリーダちゃんの前で飲んでいますと
横からチラチラ小生を伺い見る不審な華僑の若造が居ました
そのうちに ”神谷君?”と声が掛かりましたので一体誰かと辺りを見回しますと
”俺 俺だよ!”とその華僑が言います
一体お前は誰だ、、、という目で彼を見ますと
”岡崎のHだよ”と言うではありませんか!
何と連尺小学校 城北中学校 岡崎高校と同級生であった H君なのです
お互いからだが小さく 小中学校では級友に軽く扱われていました
その反動と柔道一直線桜木健一の影響を受けて 高校入学後 申し合わせたように 
二人は柔道部へ入ったのです 一緒だったのはそこまで、、
卒業後彼は確か一浪して三重大学の林科 小生も一浪して 名古屋大学の林産学科へ
その後は離ればなれの相まみえる事なき人生を別々に歩んで来たのです
それがなぜ?
しかもボルネオ島のサマリンダで?
尚且つ T.H.G.で? 尚且つ 尚且つ フリーダちゃんの店で相まみえるとは、、、!
積もる話によると 彼は大学卒業と同時に合板メーカーへ就職
そこから丸紅へ出向してサマリンダ駐在をしていたのです
”よくぞこの広い世の中で 偶然とはいえお互いが憧れている
フリーダちゃんの店で再開を果たすとは”、、、、感激の硬い握手!
”企業秘密とお付き合いの矛盾はどうしたら解決できるか?”
”最適な原木検品の仕方と最適な船積みアテンドの仕方は?”
”フリーダは日本人と結婚したいと言うが これは本音か お愛想か?”
”サマリンダの木材駐在員はフリーダに関して紳士協定を結んでいる
彼女を映画に誘う事までが許される限度であり それ以上に手を出すと
ここの日本人社会から放り出されるので気をつけられたし、、、、”
等等、お互いの駐在経験から導き出された情報を交換し合いながら
旧交をを温めたのでした
これから毎月ここで会おう!
今後の成長をお互い確かめ合おう!!
そして 三河男児の生き様を皆に見せてやろう!!!
感激の硬い握手を交わして小生はタラカンへ戻りました

それから今に至るまで彼とは会っていません
彼はそれからしばらくして急性肝炎を患い 帰国してしまいました
志なかばでの帰国はさぞかし悔しかったでしょう、、、
さぞかし盛大に後ろ髪もひかれた事でしょう

そういう小生も同じく急性肝炎を患い シンガポールで英国系大病院へ
強制入院憂き目に会いました
そしてその後しばらく禁酒節酒の地獄も味わいました

フリーダちゃんはその後 サマリンダの国立ムラワルマン大学農学部へ
日本政府ODAを受けて電子顕微鏡を導入するというプロジェクトで
短期滞在していた日本人電気技師と本当に結婚して日本へ行ってしまいました
あの言葉は本気だったのです

我々も独身でしたから口説く資格は大いにあったのに、、、
なぜ彼だけが我々のマドンナを射止められたのか、、、?
それは彼が紳士協定を知らなかったからです

単純に屋台に通い詰めて 口説き落としたそうです
そしてこの回想締めくくりの真実
急性肝炎はフリーダちゃん屋台の氷が原因だったのです
冷蔵庫のない屋台ではビールを冷やす手だてがありません
そこでビールを氷で割るのです
水には神経質な我々も この氷が製氷工場からの物だったとは
知るよしもありませんでした
フリーダちゃんに酔い フリーダちゃんに散った駐在員達でした  



笑話

  Mengapa telapak kaki gajah datar ?
  Karena baru loncat dari pohon tinggi

dari " Buku WaH"
Lanjutan
oleh: Tante Wah



  SBY裁判所正面玄関前

私の定番観光コース SBYの裁判所で (S)

::若者のドラッグ::

裁判長 ”enak? ”
若者  ”enak! ” 
裁判長 ”rasanya? ”
若者  ”mabuk! ”  

 このくらいのインドネシア語なら理解 
 思わず ケラケラ笑ってしまいました
 ドラッグの生産地はAcehとかで 
 津波の被害で品薄
 そのため最近捕まる青年少なしと、、、

追憶タラカン、、、
私記 インドネシアがらみの20年間を総括して

                  神谷 典明

 いとしのタラカン島 の巻  



タラカン島はインドネシア共和国、
カリマンタン島の最北部に張り付いている小さな島です
人口は1979年当時、全島でも3万人ぐらいと聞きました
バイクなら東西へも南北へも、ほんの20分も走れば町を抜けてしまいます
ぐるっと町全体を一周しても、1時間とはかかりません
そんな中におそらく2万人程が住んでいたのでしょうか、、、
そして、私もその一人だったのです
話によるとタラカン島は、あの有名なパレンバンの落下傘降下よりも    日本軍が最も早く進駐した地なのだそうです
その理由は、、、、”油田 ”
町を少し離れると、そこはもう油田地帯
オランダ統治時代に立てられ原油汲み上げ鉄塔があちこちにあり
その下でロバの形をしたポンプが今でも原油を汲み続けているのです
日本軍はこの油田を押さえんがために進駐したとのことです
しかしその後、連合艦隊が島に来襲し、丘の形が変わるほどに
艦砲射撃を行い、日本軍を敗走させたのだそうです
そのため日本人墓地がありますし、軍票や貨幣も出てきます
横井さんのような隠れ日本兵の話で賑わった時期もあったそうです
タラカン島に生えている木は、中から砲弾の破片が出ることがあり
タラカン本島の原木は買い付けるな、と上司に言われました
楽器で有名なY社が、金属探知器を使ってアガチス原木の
検品をしたという有名な話があるほどです
一度だけ小生は、この命令を守らずタラカン島産
ペルポック原木を買い付け輸出したことがあります
矢張り砲弾の破片が出たそうで、顧客の帯鋸を吹っ飛ばしたそうです
シッパーにクレームを入れましたが、
日本軍の砲弾なので、その子孫たるお前が持って帰るのは当然!!と
一喝されてネゴに負けてしまいました
 


当時ジャカルタからタラカン島へ来るには 約12時間掛かりました
鳥も通わぬタラカン島、、、日本へ行くよりも時間が掛かったのです
朝4時にジャカルタの国内専用クマヨラン空港へチェックイン
ジェットが飛ばないので双発のプロペラ機で先ず、ジョクジャへ
そして次は海を越えて南カリマンタン州都、バンジャルマシンへ
更に東カリマンタンの石油基地、バリックパパンへ
そして、ここで小さな飛行機に乗り換えて、
いよいよタラカン島へ到着したのは夕刻4時、
つまり丸々12時間掛かったのです
朝早くにジャカルタを出た訳は、タラカン空港に照明設備がなく
有視界で着陸する関係上、日が暮れる前に着く必要があるためです
出張時は、いつも朝寝坊防止を兼ねて、明け方2時まで
ブロックーMで飲み明かし、タクシーで宿舎へ立ち寄り荷物を取って
そのまま空港へ向かうという強行軍でした
眠さと二日酔いで、バンジャルマシンに着くころには、いつもフラフラ
一度自分の乗る飛行機が目の前で、プロペラを回しているのを
夢の如く見ていたことがあります
”saya mau naik !、、、乗るぞ ”と
大声で叫び、走り、タラップを降ろしてもらい事なきを得ました
しかし、タラカンの宿舎に着き、
マンディー(水浴び)を終えて夕焼けを見る頃には
もう青い灯、赤い灯にムズムズするほど若かったのです

当時のタラカンには石油関連の白人掘削技師達が駐在しておりました
カリマンタン本島から伐出して来た原木の積み地でもありましたので
日本人も、木材の開発輸入を担当する商社マン
マングローブに生息している”バカウ”という木を粉砕輸入するチップ屋さん
同じくマングローブに生息する海老を加工輸入する えび屋さん
そしてそれらを積みに来る船の船員さん、、、と、
夜の娯楽需要は大変大きかったようです
そのため場末のバーが十数軒もあり、更にはナイトクラブさえも
こんな小さな島に、ニルワナとバッテラーという2大ライバル店がありました
娯楽のないカリマンタン他地区の駐在員からは、”タラカン詣で”と
称されるぐらい、タラカンへの出張は喜ばれておりました



夜の蝶は、そのほとんどがジャワから流れてきた使い古しなのですが
需要が価値を決めるわけですので、国際競争の結果を充分反映した
値札をつけておりました
バーもナイトクラブも中は暗く、なるべく蝶の表情が判らぬよう
配慮されておりました(判ったときはもう手遅れです)
それでもNTB(non time booking)と称して、
前渡し金で縛り、幾日も蝶を独り占めしようとする華人や
初物狙いの華人もいて、金のない若輩を悔しがらせておりました
ホテルといえるものは3つ
町中のミラマホテル、郊外のバッテラーホテル、そしてタラカンプラザ
それ以外にプギナパンと称する連れ込み、商人宿が多数ありました
バイクとプギナパンには大変お世話になりました
小生の家からは、タラカンプラザが一番近くいつも入り浸っておりました
レセプションの娘達と仲良くなり、
日本人客が来たら電話をかけて、と頼んだのです
電話が来ると早速手ぬぐいを持って飛んでゆき、相手かまわず
”ここで駐在している日本の材木屋です 風呂を貸して下さい”と頼むのです
そして久しぶりにお湯につかり、久しぶりに日本語を使い
久しぶりにその日本人を誘って飲み、且つ遊ぶのです
こうして出来た人脈は連綿と20年を過ぎた今に至るまで
繋がっております
かように異国の地で結ばれた縁は深きものです




笑話

  Gambar apa ini ?

Kucing sedang manjat tiang Listrik

dari "Buku WAH"
Lanjutan
oleh : Tante Wah    

追憶タラカン、、、 
  私記 インドネシアがらみの20年間を総括して

                        神谷 典明 
   漂流は怖い、の巻    



 漂流は怖いです。
 マラリヤより怖いです。
 昔、こんな事がありました。
 今から20年前 日本からお見えになったVIP待遇顧客 N氏と、彼を案内してきた上司 M氏を
ボートでタラカン島から更に北に位置するヌヌカン島へ検品に向かいました。この両島の距離は、
カリマンタン本島内の曲がりくねった河中を走る通船で一晩、外洋を突っ切って走るスピードボード
を使えば、5時間程です。
 薄暗い夜明け前にタラカン島を出発するつもりでしたが、給油等でゴタゴタし、結局出発できたの
は日が昇ってからでした。
 なにやら胸騒ぎがしたので、ボートの運転手に”スペアーパーツの準備は大丈夫か、、、”と念押
ししたことを今でも覚えております。
 この遅れがひびいてヌヌカン島着も、仕事終了も遅れました。
 夕刻の海を見つめ、帰るべきか帰らざるべきか迷いました。
 ヌヌカン島には外国人が泊まれるようなホテルは全くありません。
 あるのはプギナパンと呼ばれる木賃宿、各部屋にはベットがあるのみ。
 共同シャワーも共同トイレも床がヌルヌル、水は歯磨きと言えども、あるのはドラム缶での汲み置
きだけ。
 夜になれば10時で電気は止められ、停電となってしまうので恐ろしくてトイレにも行けません。
 辛い仕事をやっと終えて、ましてやVIPを伴っているのにこんなところで泊まれるか!
 レストランもバーもデイスコもホステスも無い、こんな田舎に泊めたらアテンダーの名折れ、VIPも
上司も嘆くだろう、、、
 正直にこの状況を伝えた上で「帰りたいですか?」と 聞けば当然「帰りたい。」と答える、、、
 当たり前のことですがこれが正義となりました。
 こんな所にVIPを泊めてはいけない。
 是非文明のあるタラカン島に泊まって頂かなければ、、、、
 白く波頭立つ河口を望見しながら ヤバイな、、、、とは思いました。
 早く河口を突っ切って海へ出よ!
 海へ出さえすれば恐ろしい河口の三角波も消える。
 思いっきり突つ走れば午前様も避けられる。
 上手くいけばデイスコのかんばんにも間に合う。
 そう叫びながら出発しました。
 しかし行くしかないと思ったのは全くの間違いでした。
 夜風を受けて突っ走っていたボートに奇妙な音が混じり始め、とうとうプラグ関連のエンコを起こし
てしまいました。
 交換用スペアープラグを持ってきていないのです。
 あれほど出発前に念を押したのに。 
 修理したくとも波間に漂う船の上、上下にうごめく懐中電灯の光では何も出来ず、昼間でしたら近
くを通る船を呼んでプラグを借りるか曳航してもらうか出来ますが、夜中の真っ暗な海では 幽霊船
しか通りません。
 運を天に任せて漂う以外打てる手はなし。


 全て小生の判断ミス。
 お客さんに”このままでは 流れ流れて黒潮に乗ってしまい、日本に着いたらミイラですね”。
 思わず悪い冗談が出てしまいました。
 ”子供たちの顔が目に浮かぶ、、、” VIPは真剣に怖がっていました。 
 全ては後の祭り、。
 夜中の真っ暗な海を漂っておりますと 誰も口をきかなくなってしまいます。
 冷え冷えとした不安に駆られてしまうのです。
 自分が座っている板に目がいきます。
 脇のガソリンポリタンクに目がいきます。
 上司の目もVIPの目も同じです。
 船が転がったらこの板は俺のものだ。このポリタンクも俺のものだ。
 いやらしい戦いが目線だけで交わされます。
 誰も口をききません。
 上司といえどもVIPといえども人間関係はここまでですね。
 所詮自分以上にいとおしい存在はこの世にはないのです。
 暗い波間で人間の本質を探る戦いが、静かに深く繰り広げられたのです。
 遠くで明かりのようなものが見えました。
 あれはいったい何だ? 幽霊船か? 幻影か?
 船頭が叫びました。 ”ブニュウ島だ!、、、助かった!”
 海底油田のキャンプがあるブニュウ島の明かりが見えたのでした。
 ”漕げ!!”上司が叫びました。
 Yes Sah!、、、 我々は漕ぎました。
 座っていた板を引きはがし櫂にする者。
 履いているビーチサンダルを両手にはめ、水掻きする者。
 皆必死で漕ぎました。
 灯りへ向かって漕ぎました、、、生に向かって漕ぎました。
 タラカン島へ着いたのは夜が明けてからでした。
 いったい昨夜は何だったのだろう、、、?
 人間不信と友情を一晩で味わった、幻のごとき思い出です。
 (本当にあったことなのだろうか、、、????)
 今回はこれで。


 
笑話

Kalimat apa yang paling sering 
ditemukan dalam pelajaran sekolah

Saya tidak tahu , Pak .


dari " Buku WAH "
Lanjutan
oleh : Tante Wah