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インドネシア通信 『断食明け』…の巻き

 

インドネシアは今、断食が明け、歓喜のイスラム正月真っ最中です。

苦しい断食月は明けました。

『スラマット・ハリラヤ』(おめでとう)、と言う挨拶を交します。

『モホン・マアフ、ラヒル ダン バティン』…(内も外もごめんなさい)

                  (気ずかない間違いを許してください)

と声を掛け、カード(年賀状に相当)を出し合います。

 

 ↑(断食明けの食事を皆でする)

 

イスラム教徒は何ゆえ断食をするのでしょうか?

長年の疑問であり、未だに答えを見出せずにおります。

断食と言っても日本の断食とは違います。

日本の断食は言葉通りまさに食を断つ、幾日も食事をせず水だけで過ごします。

中にはそのまま死を迎え生き仏となる人もおります。

我々における断食のイメージはこの様なものです。

 

インドネシアの断食月、もしくはイスラム教徒の断食月は違います。

太陽が出ている間だけ食も水も断ちます。

タバコも断ちます。感情的になってはいけないので怒ることも出来ません。

工場で怒ると、『何で怒るのだ!』、と怒られる程です(?)

しかし…、日が沈めば食も水も摂ります。

な~んだ、それでは断食ではないじゃないか!

ただ食事の時間帯を夜にずらせただけじゃないか!

 

そうでないことは試してみれば判ります。

食を断つ苦しさより水を断つ苦しさの方が勝ります。

まして南方のしかも工場の中で仕事をしながらの水断ちです。

半日も経たずに口中がネバネバ、苦くなってきます。

夕日が翳ると、もう仕事は上の空。

思うは水のことばかり、水…、水…、水…、

夕日が沈む前からペットボトルを目の前において睨みつけます。

コーランの音(夕べのお祈り)が聞こえると一気に飲み干します。

こんな日々を一ヶ月、30日間過ごすのです。

その苦痛たるや、とても言葉で言い表せるものではありません。

そんな苦痛を男も女も大人も子供も等しく味わうのです。

・昔の何もなかった頃を思い出して、

・恵まれない人達に思いを馳せて…、

・己の克己心を信じて…、

動機は色々あるでしょうが2億4千万の約8割、そこから乳幼児と

月よりの使者が来ている女性を除いた老若男女がこの苦行に挑戦するのです。

青息吐息の一ヶ月目を迎えようやくこの苦行から開放されたのがまさに昨日の

8月19日でした。 イスラム正月大晦日です。

 

歓喜の理由が分かりますか?

自分に打ち勝った歓喜です。

水やタバコに手が出そうになったこと、そして苦しさに思わず怒鳴りそうになった事、

多々有ったでしょう。

そこで手を出したら終わり、この歓喜は味わえません。

これが断食月なのです。

これを1億9000万人が毎年行うのです。実に壮大です。

 

日が暮れて味わう食事の美味しさ!、半日ぶりに飲む水のありがたさ!

当たり前のことがどうしてこれほど嬉しいのだろう…

断食が教えてくれたのは、当たり前に過ごす日常の有り難さだったのかもしれません。

 

 

(追伸)

例年・盆休みの間もインドネシアは働いております。

   ・イスラム正月休みの間は日本が働いております。

つまり、日-イン両国に絡む小職はいずれの休みでも心の平穏は得られません。

ところが、今年は、日ーインの休みが同じ月内に連続して起こったのです。

盆休みが明けたと思ったらイスラム正月休みが始まりました。

大変珍しい年です。

 

思い起こせば33年前の1979年、小職が初めてタラカン島に入った年、

独立記念日とイスラム正月が同じ8月に連続してあったように記憶しております。

どちらが先だったかは覚えておりませんが、独立記念日に行われた町を挙げての

祝賀行列を眺めていた事は写真で判ります。

そして、今年、

8月17日が67年目の独立記念日、19日が断食明け、20日がイスラム正月。

ほぼ33年間で断食明けのイスラム正月が一年を一周した事になります。

今まで気が付きませんでした。

33年経って初めて判ったことです。

インドネシア人でも知っている人は少ないでしょう。

イスラム正月が一周するほど長い期間インドネシアで生かされて来た自分の人生、

我ながらその長きに驚きました。

 

作家の城山三郎氏は言いました。

『南方駐在員の1年は日本の3年に相当する』、と。

南方で生きた33年間は日本で生きる99年間に相当する苦労と楽しさを小職に

与えてくれたのでした。そして、振り返って見れば苦労も楽しさに変わっているのです。

 

異国を母国と思える僥倖。

2つの国が持てたことは2倍の友人が持てたこと。

2つの国が持てたことは2倍の世間を知ったこと。

2つの国が持てたことは2倍の人生を歩めたこと。