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インドネシア通信 懐メロ『Bunci tapi Rindu』…の巻    神谷典明

 

奇しくも足掛け45年の長きに亘りインドネシアで生活するはめになりました。

1979年2月東カリマンタン州のタラカン島で駐在を開始した時には、

その日その日を異国の地で生きるのに精一杯で今後のことなぞ全く考えませんでした。 

当時は25歳の若造でした。それが今では古希を迎える老体となりながらも、

まだインドネシアの地で頑張っております。

本当に考えられない事です。

 

❶1979年2月から1984年末まではタラカン島で湿地帯原木(主にペルプック)

の伐採と輸出に従事しました。

 

➋1985年元旦からの原木禁輸を受けて一旦帰国しましたが、

製材の勉強をしてからインドネシアへ戻り、タラカン島の北部に位置するヌヌカン島と

スラバヤ郊外のパスルワン地区でペルプックの製材輸出に従事しました。

 

❸同時にセレベス島ウジュンパンダン(現マカサール)でも製材を始め、

アガティスとベルプックを挽きました。

 

❹スラバヤの製材を維持しながら1988年よりセレベス島のパロポで合板併設の

製材工場を借りて、アガティス、ペルプックの製材を開始しました。

 

❺1990年代初頭よりはスマトラ島リアウ州パカンバルでペルプックの製材輸出開始。

 

 

❻製材高率輸出税課税の措置を受けて、スラバヤで輸出税の掛からない木工品としての

集成材へ本格的に扱いをシフトし、メルクシ松集成フリーボードの製造輸出を始めました。

 

❼ジャカルタではゴム集成天板メーカーを指導し建築用ゴム集成フリーボードを作らせました。

 

❽2000年からはスマトラ島ジャンビの合板工場で『おが粉の出ない製材品』としてのLVLを

製造輸出しました。

 

❾コロナ禍を挟んでスマトラ島ランポンでWPC(含浸)ゴムLVL製造輸出に取り組んでおります。

 

 

【原木禁輸を受けて製材へ】【製材の高率課税を受け集成材へ】

そして歩留まりの違いを認識して【おが粉の出ない製材品としてのLVLへ】と扱いを変えながらも

製造輸出を維持して来ました。

その間に25歳の若造も70歳の老人へと変貌を遂げました。実に長い道のりでした。

 

時々帰国する日本で結婚し、子供を作り、孫も出来て、インドネシアでの仕事を維持しながら、

日本でも人並みの生活を営んでおります。

日印両国に足を掛け、想い出は2倍、友人も2倍、楽しさ2倍、苦しみ2倍。

二つの国にまたがって生きておりますので何でも2倍です。

 

初めてタラカン島へ渡った時は、こんな人生を歩むとは思いも及びませんでした。

足掛け45年に亘るインドネシア人との付き合い。

今のパートナーや友人は、当時まだ赤ちゃんか生まれてない人達です。

当時最も若かった小職が、今では最も年老いた存在となっております。

その間の泣き笑いを一節唸りましょう。

 

女の子が死ぬのを3回見ました。

 

一度目はタラカン島。

一緒に住んでいた女子高生が、一時帰国して戻ったら居ませんでした。

毎朝コーヒーを出してくれる気の利く娘で、お土産に鞄が欲しいと言うので

日本で買って持ってきたのです。

家の中で姿が見えないので同居人に訊いたら『病気で死んだ』

持ってきた鞄は行き先を失い、虚しく部屋の壁にぶら下がっておりました。

 

二度目はスマトラ島ジャンビ。

ジャンビ空港のガルーダラウンジでアルバイトしていた娘です。

搭乗の呼び出しを受けて慌ただしく駆け出して行き、汗に濡れたタオルを忘れたのです。

それを洗って保管し再会した時に渡してくれたのです。

御礼に食事に誘い話を聞いていたら『学校へ行きたい、先生になりたい、

でもお金が無いのでアルバイトして学費を溜めている』との事情でした。

そこで『学費を出してあげるから学校へ行ったら』と誘いました。

本人は半信半疑でしたが、小職が銀行口座を訊くに及んで本気だと判ったのでしょう。

実に嬉しそうな顔をしました。

入学試験を受けて合格したら学費を振り込んであげるよ。日本からの土産に何が欲しい? 

と訊きましたら、学校へ行くのに背負って行くランドセルが欲しいと言います。

ランドセルは高いのでミニチュアの赤いランドセルを日本で買いました

再会を約しておりますと本人からマラリアに罹ったとの連絡です。

インドネシア人は熱が出るとマラリアと言います。

小職はタラカンで本当に罹ったマラリア持ちですので、

『そんな簡単にマラリアには罹らないよ、ただの風邪だよ』と笑って諭しました。

ある日友達からワッツアップが来ました。『マラリアで死んだよ…』

ジャンビヘ飛んでミニチュアの赤いランドセルをお墓に供えました。

 

三度目はジャカルタです。

知り合いから近所の娘が病気で苦しんでいる。

親に金が無く手術が出来ないので助けてやってくれないか!という依頼と共に

女子高生の写真が送られて来ました。痩せてリンゲルの管に繋がれた痛々しいものでした。

2度悔しい経験が有りますので、取り急ぎ500万ルピア知り合いに送りました。

その直後に葬式の写真が送られて来ました。間に合わなかったのです。

友人らしき女高生たちが泣きながら写っておりました。送った500万は葬式代金に消えました。

 

インドネシア人は何と儚く死ぬのでしょう… (それとも作り話?)

特に三度目は顔も見た事が有りませんので真偽の程は不明のままです。

『騙された』と人は笑います。

 

インドネシア人は簡単に人を頼ります。『お金貸して!』

『無い』と言いますと『ya, sudah(分かった)』と言って金策に走ります。

日本人は金策に奔走し、万策尽きたら人に頼ります。

インドネシア人は逆です。簡単に恥ずかしげもなく人に頼ります。

先ずは人に頼って何とかなったら儲けもの。ならなければ仕方なく自分で探します。

この仕組みが分かるのにずいぶん時間と金が掛かりました。

日本人と同じく万策尽きて頼って来たものと思っておりましたので、可哀想に思い、

金を貸していたのです。返ってこない事ぐらいは知っておりました。

故に悔やみません。

然し、万策尽きて頼って来たと思っていたのが、豈図らんや、先ずは頼ってみて。

インドネシア語でcoba cobaと言います。試してみて、という意味です。

こちらは万策尽き尾は打ち枯らして来たものとばかり思っておりますので、

哀れさに貸す方が金策に走るのです。

特に命の懸かる病気治療費要請の場合は3度の悔しい経験が頭をもたげて来ますので

必死の金策をします。

その結果どうしても金が無い時は『悪いけど持ち合わせが無いのでごめんね』と言って断ります。

この時の返事『ya, sudah』は『分かった』ではなく本音は『チェ、ダメか』なのでした。

 

酷い時は『前は貸してくれたのになんで今はダメなんだ!』と言って逆切れ。

もっと酷い時は『minta kasbon前借頂戴』と言います。(いつから俺の従業員になった!?)

 

 

こんなインドネシア人が大嫌いです。

45年間この国に尽くしてきて、結果得られたのは、この国の人が嫌いと言う結末でした。

でも中には必死で自助努力をする人も居ます。

こう云う人は頼まれなくても助けたくなります。

難しいのは、誰が自助努力をしていて、誰が自助努力をしていないか見極め切れない事です。

結果、人を頼りに生きる輩に金を貸してどぶに捨てます。

このパターンが9割でしょう。

たった1割の自助努力をしている人を助ける為に、9割の憎く悔しい想いをするのです。

 

これを称して『bunci tapi rindu』と申します。

1979年ごろインドネシア全土を席巻した流行歌の名前です。

Bunciは憎い、rinduは恋しい。意味は憎いけど恋しい。

小職がタラカン島でバーの女の子に教えて貰って初めて歌えたインドネシアの歌です。

八代亜紀の歌う『雨の慕情』(憎い、恋しい、憎い、恋しい、巡り巡って今は恋しい)と同じです。

違うのは『巡り巡って今は恋しい』とは、なっていない事だけ。

 

AAA(終わり好ければすべて好し)

BBB(終わり悪しければ全てが悪し)

果たして小職のインドネシア人生は一体どちらに転ぶのでしょうか???

 

これから5年間が勝負です。